在来知と近代科学の比較研究

日本学術振興会科学研究費補助金・基盤研究(A) 25244043

About the Project

<背景>

現在、先住民の知識をはじめ、世界の様々な社会集団がそれぞれの地域の生態・社会環境に適応する過程で生み出してきた在来知(Indigenous Knowledge)が注目されている。これまでの調査によって(Berkes,F. Sacred Ecology. Taylor & Francis.2008)、在来知には、それぞれの地域の生態・社会環境に密着した精緻で豊かな知識と技術が凝縮されていることが明らかにされてきた。例えば、カナダ極北圏の先住民のイヌイトが極北圏の気候変動や野生生物について近代科学の科学的知識に匹敵する知識をもっていることが指摘され、1990 年代以後、環境開発や資源管理の場でイヌイトの知識が近代科学の知識と共に活用されるようになっている(本多俊和&葛野浩昭&大村敬一編『文化人類学研究:先住民の世界』放送大学教育振興会2005年)。
しかし、在来知が注目されるにつれて問題も生じている。それは在来知と近代科学の摩擦である。一つの共通の現象に対して在来知と近代科学が競合する見解を示すことがあり、ときには対立してしまう。例えば、現在、極北圏の野生生物管理の現場では、ホッキョクグマ猟の規制をめぐって近代科学とイヌイトの判断が対立している(Freeman M.M.R.& L.Foote eds., Inuit, Polar Bear and Sustainable Use. CCI Press, 2009)。ホッキョクグマの頭数が減少していることを根拠に猟の規制の必要性を強調する近代科学の主張に対して、イヌイトはむしろ頭数が増加していると反発している。
こうした状況にあって、在来知と近代科学の摩擦を回避し、それぞれの特性を活かしながら両者を活用してゆくための方法を考えることが急務になっている。しかし、これまでの研究が反省をもって指摘してきたように(Nadasdy P., Hunters and Bureaucrats. UBC Press, 2003)、それぞれの地域の政治・経済・社会の力学との関係を考慮することなく、両者の対照的な相違を前提に両者の性質を理念的なレベルで比較するだけでは、在来知と近代科学の摩擦を助長することにしかならない。むしろ、理念的なレベルでの両者の対立を一旦は括弧に入れ、それぞれの見解の相違がそれぞれの地域の政治・経済・社会の力学の中で生じてくる具体的なプロセスを解明することが求められている。

<目的>

そのプロセスを明らかにするために、本研究では、在来知と近代科学のそれぞれにおいて個人の知識が社会的に共有されて組織化されてゆく具体的なプロセスに注目する。在来知も近代科学も個人の知識ではなく、個人の知識が社会的に共有されて組織化されることではじめて成立する(ラトゥール, B.『科学がつくられているとき』産業図書1999 年)。その共有と組織化のプロセスにそれぞれの地域の政治・経済・社会の力学がいかに作用するのかを民族誌的に調査することで、在来知と近代科学の相違が生じてくるプロセスを具体的に明らかにするのである。そして、そのプロセスに孕まれているポリティクスを調整する可能性を探求することで、両者の摩擦の解消という今日的な課題についての一般理論の構築と具体的な方策を探求する。具体的な対象としては、歴史的背景や現状は異なるが、両者の摩擦が現在もっとも先鋭化している次の6領域をとりあげる。

(a)野生生物の利用と管理:絶滅危惧種をはじめとする野生生物の頭数や分布、生態学的特徴に関する在来知と近代科学の対立(カナダ極北圏とボツワナの国立公園)。
(b)水産資源の利用:近代科学に基づく漁法と在来知に基づく漁法の対立(マダガスカルの漁場)。
(c)水資源の管理:在来の伝統的な治水技術と近代科学の治水技術の対立(タイのバンコク周辺の水系)。
(d)生物資源探索:製薬や健康食品などに利用可能な植物などの生物資源の生物学的情報を収集する現場での在来の民俗動植物分類と近代科学の動植物分類の対立(インドの植物資源データベース)。
(e)土地に対する認識と利用:聖地をめぐる在来知と近代的土地開発計画の対立(オーストラリア)。
(f)地球温暖化による異常気象対策における在来知と近代科学技術の対立(グリーンランド)。

本研究では、これら6 領域における在来知と近代科学のそれぞれにおける知識と技術の社会的な共有と組織化のプロセスを調査して比較することで、両者の連続性から断絶が生じるプロセスを浮かび上がらせる。その際に、本研究では、「研究計画・方法」で詳しく述べるように、共有と組織化のプロセスという共通の地平で両者を比較するための方法として、個人の知識と技術が組織化される方法と媒体の種類に応じた次の四つのモードを設定する。これまでの研究が明らかにしてきたように(ラトゥール, B.『科学がつくられているとき』産業図書1999 年、グディ,J.『未開と文明』岩波書店1986年)、在来知にあっても近代科学にあっても、知識と技術の共有と組織化のプロセスのあり方は、語りや文字や数字などの媒体のあり方によって大きな影響を受けるからである。

(a) 語りに媒介された実践コミュニティにおける共有のモード。
(b) 文書による記録と組織化のモード。
(c) 数値および幾何学的な図像による記録・解析のモード。

本研究では、上記の6 領域において、この三つのモードに注目しながら両者の関係を分析し、次のことを明らかにする。

①在来知と近代科学の連続性と断絶の実相:
両者のそれぞれにおいて、三つのモードがどのように共存し、相互に結びついているのかを明らかにし、両者の間でのモードの組み合わせの共通性と相違を示すことによって、両者の連続性と断絶の実相を明らかにする。
②知識と技術が正当で有効なものであると認められるプロセス:
両者のそれぞれにおいて、三つのモードのどのような組み合わせが正当で有効であると認められているのかを明らかにする
③連続性から断絶が生じるプロセス:三つのモードがそれぞれの地域の政治・経済・社会の力学と連動しながらいかに組み合わせられ、結果として、どのように在来知と近代科学の断絶が引き起こされているのかを明らかにする。
④在来知と近代科学を調整する方法:三つのモードから成る知識の共有プロセスおいて、それぞれの利点を活かしながら両者を調整するために、どのような方法がありうるか。