在来知と近代科学の比較研究

日本学術振興会科学研究費補助金・基盤研究(A) 25244043

第5回研究会

<「在来知と近代科学」(IK&MS)科研第5回研究会>
「フィールドの現実:在来知と近代科学が出逢うところ」
日時:1月12日(日)、13日(月)
場所:国際日本文化研究センター・第3共同研究室
http://www.nichibun.ac.jp/ja/information/access/index.html

<スケジュール>
1月12日(日)13:00pm~19:00pm
(1)趣旨説明(大村):「フィールドの現実:在来知と近代科学が出逢うところ」(13:00pm~13:15pm)
(2)発表1:森洋久「情報とは何か?」(17:00pm~18:30pm質疑含む)
休憩:15:00pm~15:15pm
(3)発表2:中空萌「並列的分類と局所的な存在論?:インドにおける生物資源多様性登録プロジェクト」(15:15pm~16:45pm 質疑含む)
休憩:16:45pm~17:00pm
(4)発表3:菅原和孝「『動物の境界』序説:狩猟採集民グイの談話分析から」(13:15pm~15:00pm質疑含む)

1月13日(月)9:30am~15:00pm
(1)発表4:窪田幸子「クランの土地と神話世界にかかわる知識の継承:オーストラリア北部ヨルングの現代的実践」(9:30am~11::00am 質疑含む)
休憩:11:00:am~11:15pm
(2)発表5:飯田卓「ローカル漁民のサンゴ礁保全の仕組み」(11:15am~12:45pm質疑含む)
休憩:12:45pm~13:45pm
(3)13:30pm~15:00pm 総合討論

<発表概要>
森洋久
「情報とは何か」
要旨: 現在、総合研究大学院大学のプロジェクトの関係で「情報とは何か」という本の執筆をやっている。コンピュータ・サイエンス= 情報科学、あるいは情報工学の立場から、という方向性である。私も長らくエンジニアとしての仕事を続けてきたが、周囲では近年、情報科学を哲学的 に捉え直す試みが盛んになってきている。特に情報をマニピュレーションする主体としての人や社会、生命との関わりで情報科学やコンピュータを捉え ることが行われている。本書は、分子生物学との関係性で「機械化する生命(観)」、また、情報科学の自身との関係性で「生命化する機械(観)」と いう二つの柱から出発して、私の経験と勘で情報科学と生命の関わりに切り込みを入れて行きたい。今回はこの筋立てについて開設する。

中空萌
「並列的分類と局所的な存在論?:インドにおける生物資源多様性登録プロジェクト」
概要: 生物資源多様性条約の制定にともない、インドでは中央政府、州政府、村落パンチャーヤト、NGOなどさまざま なア クターにより、生物資源や薬草治療に関する「在来知」のデータベース化が行われるようになった。開発批判を行う人類学者たちは、「在来知」と「近 代科学」の認識的基盤の差異、二つの知識体系の共約不可能性という立場から、こうした試みを批判してきた。しかし実際の知識=実践のあり方、 そし て両者の接触部に目を向けると、(特定の文脈においては)両者は交渉と「部分的」な翻訳を繰り返しながら「もつれ合って」生成し続けていることが 分かる。本発表はこのことを(発表者のフィールドである)ウッタラーカンド州の「民族医療」(vaidyaの知識)と植物分類学、植物化学の あり 方、そして実際のデータベースの技術的細部(分類体系)の設定過程における政治的交渉を事例として示す。その上で、オーストラリアの科学哲学者 Helen Verranや文化人類学者David Turnbullによる「『ポストコロニアル』なデータベース化プロジェクト」, 発表者のインフォーマントたちの「並列的分類」(「科学的な分類と民俗分類をお互いの 『横』に置き、時に翻訳を可能にしながらも完全な連関とはなり得ない関係性のあり方」)という提案をもとに、在来知の「表象」ではなく「生成」としての アーカイブ化の可能性と、さらに近年のそうしたアーカイブをめぐる「実験」がいかに民族誌的な「実験」をめぐる議論と関わっているかについて 論じ たい。

菅原和孝
「『動物の境界』序説:狩猟採集民グイの談話分析から」資料1 資料2
要旨: 『動物の境界』と題する大著の執筆を計画してから長い時間が経つ。人間=動物関係を主題にした夥しい著作が内 外を 問わず出版されたために、それらを追いかけていたら戦線を拡大しすぎて、先が見えなくなってしまった。この発表の前半では、1994年から開始し たグイ(ボツワナ中央部に住む「ブッシュマン」の一言語集団)の談話分析から抽出された、動物に関わる不可視の作用主について概略を紹介す る。こ の主題に関わるひとつの達成点である論攷は席上配布する[菅原 2012]。ついで、近年かまびすしい「存在論的転回」に対してどのような身構えをとるのかをめぐる最近の暗中模索を述べる。これは二段階の試行で構成さ れる。第一段階は、わたし自身の生活世界に還帰しつつ経験主義の土台から「存在論的転回」を批判するというスタイルをとる。その論旨は予備草 稿と して配布する[菅原 in press:引用を禁ず]。経験主義者として自然誌的記述を追究してきたわたしにとって、極東の人類学者が存在論的転回に無批判的に追随することは「知の 植民地状況」のもっとも深刻な表現型であり容認できない--このことをいったんは主張する。第二段階では、近年の動向の発火点となったヴィ ヴェイ ロス・デ・カストロの思想的背景がドゥルーズ+ガタリの『千のプラトー』であるという中谷和人氏からの教示を受けて右の書物と格闘した結果、わた しのなかに生まれたある種の変化を報告する。なかでも第10章で提示される「動物になること」への可能性は衝撃的である。著者たちは1980 年に してすでにアングロサクソン的(分析哲学的)論証からも現象学的還元(→内部存在論的な記述)からも訣別することを提案していたのだから、経験主 義からの批判は最初から脱臼させられる運命にある。知のスタイルだけでなく自らの生き方それ自体を根本的に変更せよと迫る著者たちの「実践倫 理」 はわれわれを震撼させる。だが、わたしは、彼らに追随して経験主義という出発点から遁走することは、少なくとも「動物の境界」という問題圏に限れ ば不徹底な態度であると考えるようになった。わたし(たち)の師、伊谷純一郎が青年期に没頭していたことは、まさに「自然」のなかに横溢する リト ルネロに身を任せることであった。インタラクション・スクールの源流を伊谷へと定位するわたし(たち)は一度たりとも二元論者ではなかった(We have never been dualist!)。この原点に復帰することによって、第一段階の素朴な批判と第二段階における《なる》(devenir)への悲痛な希求とを止揚するこ とができるかもしれない。「遠くまで行くんだ」---青年期の吉本隆明はそう詠った。だが、この知の制度化のなかで、われわれは本当に遠くま で行 く気があるのだろうか?
参照文献(拙論)2012「動物と人間の接触領域における不可視の作用主--狩猟採集民グイの談話分析から」『Contact Zoneコンタクト・ゾーン』5:19-61./in press 「原野の殺戮者---グイ・ブッシュマンと動物のいのち」木村大治編『ヒト、動物に出会う』(出版助成申請中)

窪田幸子
「クランの土地と神話世界にかかわる知識の継承―オーストラリア北部ヨルングの現代的実践」
概要: オーストラリアの先住民、アボリジニの人々は、イギリスからの入植以降の社会変化の結果、現在では市場経済に 巻き 込まれ、土地を失い、設備の整った町に定住し、学校教育を受け、近代西洋社会の恩恵をうける生活を送っている。アボリジニの人々にとって、精神生 活の中心となるのは、ドリーミングと呼ばれる独自な世界観である。その世界観を通して、彼らは大地との強い紐帯をもっていた。しかし、オース トラ リアの多くの地域では、そのような紐帯は社会変化の結果弱まり、地域によっては失われてきた。しかし、調査地であるオーストラリア北部のヨルング の人々は、社会変化に巻き込まれつつも彼らの神話的知識と土地についての知識を強く維持している。このような大地とのつながり、かかわりにつ いて の伝統的でなおかつ、新しい知識は、どのように維持され継承されるのだろうか。
この発表では、近年にアボリジニが直面している変化の中での、土地との関係のありかたに注目する。彼らは、土地や神話についての独自な深い 知識 をどのように自分のものとし、若い世代に引き継ぐのだろうか。彼らは人間以外のすべての存在に対しての複層的な責任をどう維持するのだろうか。ま た、地域的な生態学的知識と科学的知識の緊張関係と重なりをどのように文脈化するのだろうか。そしてまた、彼らの関係的なオントロジーはどの よう に再定義し表現されるのだろうか。ヨルングの人々の先住民的知識とよばれるものにかかわる行為と実践がどのようにアクチュアルな現実をうみ、再定 義し、つなぐのかを、考えてみよう。

飯田卓
「ローカル漁民のサンゴ礁保全の仕組み」
概要: マダガスカル南西部のサンゴ礁海域では、もともと漁民の密度が高くないため、漁場選択の自由度が高かった。し か し、40年のあいだに漁 獲量が減ってしまったことは事実なようで、海外に拠点をおくサンゴ礁保全NGOは、漁業秩序の確立を目標のひとつに定めている。この目標を実 現するため、NGOは、漁師たちにはたらきかけ、漁師自身がサンゴ礁保全をリードするための組合を設けさせた。グローバルなサンゴ礁保全の動 きをふまえたNGOの意思を、ローカルな実践を継続してきた漁師がいかに実現していくのか。ふたつのコミュニケーション系列の接合面を見てい くことで、開放系としてのローカル実践の展開を追ってみたい。